幕府と朝廷の関係性【鎌倉時代編】
Q. 鎌倉時代から江戸時代末期までの幕府と朝廷の関係性の変化を教えてください。
この質問については、Twitter上で用語解説を含め19ツイートに渡って回答しました。
このサイト上においても、一括で答えるとわかりにくくなってしまうと思うので、
【鎌倉時代編】【室町~安土時代編】【桃山~江戸時代前期編】【幕末編】
に分けたいと思います。
ツイートの分かれ目と少しずれるところもありますが、より詳しくしたり、用語解説も中に組み込みました。それぞれの記事同士もリンクで繋いでおくので、是非全体像も追ってみてください!
A.
【初期(後白河天皇死後~源実朝存命期間)】
幕府の方が朝廷より少し強いが、実質的には東西を分けて支配しているような状態。特に源実朝と後鳥羽上皇は、共に和歌を嗜み、仲が良かったことでも有名です。
【鎌倉初期・中期(実朝暗殺後~承久の乱~)】
源実朝暗殺後、源氏の血が途絶え、鎌倉幕府は執権が実権を握りました。朝廷はこれに反発し、後鳥羽上皇は執権・北条義時追討の命令を出して承久の乱を起こしますが、幕府軍が勝利。北条政子の御家人に対する演説が有名ですね。この勝敗で、幕府の朝廷に対する優位が決定します。幕府が西日本の領土も支配下に置くことになった一方、朝廷の力は弱くなりました。
また後嵯峨天皇の後継争いを発端に持明院統(後深草天皇)・大覚寺統(亀山天皇)に分裂、皇統争奪戦となり、双方が幕府に仲介依頼や皇統優先権を巡って交渉するようになります。この時代の宮廷生活が描かれている作品が後深草院二条の『とはずがたり』ですね。
【鎌倉末期(文保の和談~幕府滅亡)】
鎌倉幕府は文保の和談にて両統迭立を定めます。これはどちらかの皇統が皇位継承し続けるのではなく、双方から交互に天皇を輩出する、というものです。しかしこの後も両統の争いは続き、幕府介入は必須のものでした。兄弟間の対立をこのように対処しようとすると、初期はうまくいっても、次第に血の繋がりが薄れていくので失敗するのが歴史の常かと思います。。
両統迭立を唱える幕府に強く反発したのが、大覚寺統の後醍醐天皇です。両統迭立に則れば次の天皇は持明院統から出す予定でしたが、自身の子に譲位したい後醍醐天皇は倒幕運動を展開していきます。何度か失敗もありましたが、楠木正成・新田義貞・足利尊氏らの協力を得て、倒幕を実現したのです。
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