幕府と朝廷の関係性【幕末編】
その手前に将軍継嗣問題を抱えていた幕府は、井伊直弼が中心の、継嗣問題では意見を押し切った南紀派(慶福=後の家茂を推挙)ではなく、一橋派(一橋慶喜を推挙)であった人々が幕政を担うことになりました。この幕政改革が文久の改革です。
文久の改革は、1862年~勅命で行われた幕政改革で、薩摩藩主の父(藩実権を掌握していた)島津久光が、勅使を伴い幕府に改革を要求したことに端を発します。職制面で将軍後見職・一橋慶喜、政治総裁職・松平慶永、京都守護職・松平容保と定めたことが有名です。他にも軍制・学制の改革、参勤交代の緩和が成されました。そして公武合体と雄藩連合を画策しました。
その頃、長州・薩摩では尊王攘夷論が盛り上がっていましたが、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件(※)により薩英戦争が勃発。イギリスの武力に敵わず、外国の強さを実感した薩摩は一転、開国派に方針転換します。一方、朝廷内討幕派と長州藩は1863年、八月十八日の政変(※)により、会津・薩摩により京を追われてしまいます。反撃として御所に攻め寄せた長州藩士でしたが、禁門の変(※)で薩摩藩兵に敗北。朝敵となってしまい、また幕府による第一次長州征伐にも降伏しました。
(2021/5/18↓)
※生麦事件…島津久光が幕府に改革を迫ったのち、薩摩への帰途でのこと。横浜近郊の生麦村にて、久光一行の列の前を横切ったイギリス人3名を殺傷した事件のこと。これに対する応酬として、翌年薩英戦争が勃発しました。
※八月十八日の政変…長州藩の攘夷派であった久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎らは、朝廷内討幕派である三条実美と手を組んでいたが、文久の改革を推し進めている薩摩藩や会津藩にとって、この動きは障害でしかありませんでした。薩摩・会津両藩は朝廷に根回しをし、1863年8月18日、長州藩士らを京から追放する他、三条実美までも京から追放しました。ネーミングが至ってシンプルな事件です。
※禁門の変…別名・蛤御門の変。八月十八日の政変で京を追われてしまった急進派長州藩士が、1864年の池田屋事件(京の池田屋に潜んでいた長州藩士らを新選組が襲撃。新選組のバックには京都守護職であった会津藩主・松平容保がいる)を機に、会津藩が守る御所を襲撃。薩摩藩が会津藩側に加勢したことで長州側は惨敗を喫しました。このとき主導者であった久坂玄瑞は自決しています。
(以上追記)
0コメント