幕府と朝廷の関係性【桃山~江戸時代前期編】
Q. 鎌倉時代から江戸時代末期までの幕府と朝廷の関係性の変化を教えてください。
A.
【桃山時代】
信長の死後天下統一を果たした秀吉は、天下統一事業の最中、正親町天皇から関白に任じられました。また聚楽第完成時には後陽成天皇を招待するなど、朝廷権威を積極的にアピールした人物です。
これは官位を断った信長とは真逆の行動で、元々身分が低い秀吉らしい行動のように思えます。
【江戸時代初期】
江戸幕府の成立、そして豊臣滅亡の後、2代将軍秀忠は娘・和子を後水尾天皇に嫁がせ、朝幕に姻戚関係を構築しました。
姻戚関係がある一方、それ以前に「禁中並公家諸法度」が制定されており、朝廷をも支配する幕府、という構図が出来上がりつつある中、紫衣事件(※)により、堪えきれなくなった後水尾天皇が譲位し、明正天皇が誕生しました。時の3代将軍家光にとって、明正天皇は姪にあたります。紫衣事件により一度は揺らいだ朝幕関係でしたが、以後は安定します。
(2021/5/18 ↓)
※紫衣事件…「紫衣」とは、その名の通り、紫色の法衣や袈裟を指します。古くから朝廷は僧への紫衣着用の勅許という権限を持ち、これによる収入は朝廷の重要財源でした。しかし、禁中並公家諸法度では、幕府の権限でこれを禁止していました。つまり、朝廷は紫衣を与えたいと考えた僧に対して、勝手に紫衣を与えてはいけないことになっていました。ところが後水尾天皇は、大徳寺の僧・沢庵らに勝手に紫衣を与えてしまいます。幕府は当然“違法”としてこれを停止、一方これに対して沢庵らも朝廷の権利の侵害だとして抗議し、最終的に沢庵らが流罪になってしまいました。そして後水尾天皇も退位してしまいます。
ちなみにただの豆知識ですが、なんとこの沢庵、家光が実権を握ったのちにはしきりに呼ばれることとなり、助言役として重宝されました。諸説ありますが、幕府に対して適切な指摘をする人材だと捉えられたようですね。
(以上追記)
【江戸中期~】
江戸幕府の支配体制の安定に伴い、朝幕関係も安定し、6・7代将軍に仕えた新井白石の建議により閑院宮家が創設されるなど、友好関係は続きました。しかし寛政の改革期には尊号一件が起きます。
尊号一件とは、光格天皇が自身の父・典仁親王(天皇にはなっていない人物)に太上天皇の尊号を贈りたいと幕府に申し出たのに対し、老中松平定信が「皇位を継がないものが尊号を得ることは皇位の私物化である」として却下し、さらに武家伝奏や議奏数名を処罰した、という事件です。結果的に朝廷が幕府に屈することとなりましたが、朝幕関係に大きな影を落としました。
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