日本・ドイツ・ソ連の関係性【ソ連編】
記事「日独防共協定・独ソ不可侵条約・日ソ中立条約の背景」(注:タイトル変更しました)にて以下の質問に回答しました。
Q. 日独防共協定があるにもかかわらず独ソ不可侵条約が締結され、その独ソ不可侵条約があるにもかかわらずソ連が対ドイツ戦に備えるために日ソ中立条約が締結された理由はなんですか?
そして、さらにその背景を考えるため、「1931年~1945年の情勢」を掲載しました。
「日独防共協定・独ソ不可侵条約・日ソ中立条約の背景」には表を掲載しただけですので、本記事を含む「日本・ドイツ・ソ連の関係性」と題した各国編でそれぞれの14年間を追い、出来事の解説をしていきます!(表に掲載した出来事のみ)
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「日独防共協定・独ソ不可侵条約・日ソ中立条約の背景」
【日本編】 【ドイツ編】 【ソ連編】
※【ソ連編】は【日本編】【ドイツ編】と重複が非常に多く(東西挟まれていますからね!)、出来事の解説をソ連目線で書こうとするとあまりにも膨大なので、説明がかなりアッサリしています。もう一押しの説明は、ぜひ【日本編】【ドイツ編】をご参照ください。
ソ連は、第二次世界大戦を経て、最も得をした国だと思います。
社会主義国であることから米・英・仏等に避けられていたソ連ですが、本来最も反共国だったはずのドイツと組んで領土を広げ、ドイツと仲が悪くなったら日本は押さえておきながらイギリスと仲直りして連合国側になり、最後には日本にも打撃を与え、戦勝国としての立場を勝ち取ったからです。
第一次世界大戦が終わってからというもの、資本主義国の最大の懸念は共産主義・社会主義だったはずなのに、対ファシズムに勤しんだ結果、社会主義国であるソ連が戦後に強大な影響力を持つことを許した原因は、確かにソ連が図々しく、したたかだったから、ですが、アメリカも、イギリスも、ドイツも、日本も、(フランスはあまり直接的接点はありません)、周辺国がソ連が社会主義国であることを忘れたかのように逐次的に対応したから。これに尽きます。
しかし、第二次世界大戦を早く終わらせるためにはそれが有効であったことは否定できません。敵の敵は味方、としてソ連と組んだことで、米英は勝つことが出来ました。
1932年
- 1928年から行われていた第一次五か年計画が終了。(1931年のところに、五か年計画が進行中、ということで記載してしまいましたが、第一次が終了したのは1932年です💦)
- 第一次五か年計画の目的・成果は重工業の育成と農業を集団化。半官半民の集団農場(コルホーズ)と国営農場(ソフホーズ)を設立した。
※ソ連は社会主義国なので、計画経済を実行するための政策である。
1933年
- 第二次五か年計画開始(~1937年)
- 第二次五か年計画の目的・成果は軽工業の育成と農業集団化の完成。
1934年
- 国際連盟加盟。
※ソ連は第一次世界大戦中のロシア革命を経て、1922年12月に誕生したが、1918年からレーニン率いるボリシェヴィキが政権を担い、社会主義国となっていた。欧米列強はその存在を警戒し、国交を持とうとしなかったが、敗戦国ドイツがソ連とラパロ条約(1922年4月)によりソ連を承認、それに焦った各国が戦間期に順次ソ連承認・国交樹立をした。資本主義国のプライドを持つアメリカだけはソ連承認を見送っていたが、世界恐慌後、フランクリン=ローズヴェルト政権時に承認(1933年)。これを受け、国連加盟が実現した。
1938年
- チェコスロヴァキアの同盟国にもかかわらず、ミュンヘン会談に呼ばれず。反対に会談に参加し、宥和政策と言いながら、ただドイツにされるがままの英仏への不信感を高める。
1939年
- ノモンハン事件で日本に圧勝。
- 独ソ不可侵条約締結。
- 同時にモロトフ=リッベントロープ密約締結(秘密条約)。内容はポーランド東西分割・バルト三国とフィンランドの領有権獲得。
- ドイツのポーランド侵攻の後、密約に基づいてポーランドを東西分割占領。バルト三国も占領。
- フィンランドに侵攻。これにより国連を除名される。
1941年
- ドイツのバルカン半島制圧に危機感を得る。
- 対ドイツ戦に備え、ドイツと防共協定で繋がる日本に東から攻撃されるのを防ぐため、日ソ中立条約締結。
1942年
- ドイツがソ連侵攻、独ソ戦開始。
- これにより英ソ関係が好転し、英ソ相互援助条約締結。
※これ以降、ソ連は連合国側となり、第二次世界大戦が“反ファシズム戦争”であることが明確化される。
1943年
- スターリングラードの戦いでドイツに勝利。
- 以降、独ソ戦はソ連優位となる。
- 連合国と接近するため、共産主義の象徴でもあるコミンテルン(第3インターナショナル)を解散。
- テヘラン会談にて、第二戦線の形成を米英に依頼(ドイツを西からも攻めてほしい)。
- 翌年(1944年)のノルマンディー上陸作戦実行に繋がる。
1945年
- ヤルタ会談にて、ドイツ無条件降伏等の処理、ポーランド・ユーゴスラヴィアの処理について協議。また、ソ連の対日参戦が決定。
- ポツダム会談にて、ドイツ戦後処理(米英仏ソによる4カ国分割占領)の最終決定。またポツダム宣言確定。
※ポツダム会談は米英ソの首脳で行われたが、ポツダム宣言は米英中の共同声明として出された。これは、この段階では、日ソ間に中立条約が存在したからである。日本の敵として戦争をしていた米英中の共同声明とすることで、ソ連対日参戦をカモフラージュした。
- 8月8日、日ソ中立条約を破り、対日参戦。
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