日本・ドイツ・ソ連の関係性【ドイツ編】

記事「日独防共協定・独ソ不可侵条約・日ソ中立条約の背景」(注:タイトル変更しました)にて以下の質問に回答しました。

Q. 日独防共協定があるにもかかわらず独ソ不可侵条約が締結され、その独ソ不可侵条約があるにもかかわらずソ連が対ドイツ戦に備えるために日ソ中立条約が締結された理由はなんですか?

そして、さらにその背景を考えるため、「1931年~1945年の情勢」を掲載しました。

「日独防共協定・独ソ不可侵条約・日ソ中立条約の背景」には表を掲載しただけですので、本記事を含む「日本・ドイツ・ソ連の関係性」と題した各国編でそれぞれの14年間を追い、出来事の解説をしていきます!(表に掲載した出来事のみ)



 ドイツは第一次世界大戦の敗戦国であることから、経済的に苦しい立場に置かれていた上に、世界恐慌で状況がより悪化しました。その中で政権を握ったヒトラーがひとえにドイツのために取った行動が第二次世界大戦を引き起こしたのかな、と個人的には思います(ただし、今回触れていませんがホロコースト等の政策は別問題です。容認していいものではありません)。

ただし、ヒトラー個人の権力が強まるにつれて、戦争が進むにつれて、冷静さを失ったのか、その場凌ぎともいえる動きが増え、敵を増やしてしまい、再び敗戦国となってしまいます。

1931年

  • 1929年にアメリカから起きた世界恐慌により、アメリカ資本の導入によって経済立て直しと賠償金返済を行っていたドイツは直接的にその影響を受けてしまう。米大統領フーヴァーはフーヴァー=モラトリアムを打ち出し、ドイツ救済のために賠償金返済を1年間停止するとしたが、効果は得られなかった


1932年

  • ローザンヌ会議にてドイツへの賠償金減額が決定。
  • 世界恐慌以降支持率を高めていた、ヒトラー率いるナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)が議会にて第一党に進出

※ナチスの支持率上昇の背景:既存政党への失望が広がる中で、ソ連が五か年計画により恐慌の影響を受けずに済んだことを受け、共産党の支持率も上昇していた。しかし反共を唱える人々、従来右派だった人々が共産党拡大を阻止するため、ナチス支持に傾いたから。


1933年

  • 大統領ヒンデンブルクが国民から支持率の高いヒトラーを首相に任命(ヒトラー内閣発足)
  • ヒトラー、国会議事堂放火事件を口実に共産党を非合法化。(共産党員による事件という口実だったが、本当はナチス側の人間による事件だと言われている。)
  • 全権委任法制定により、議会の立法権を政府に移行。議会の同意なしに政府が法律制定可能となる。
  • 全権委任法に基づき、ナチス以外の政党を解散させる。(ナチス一党独裁体制へ)
  • 軍備不平等に反対して国連脱退


1934年

  • 大統領ヒンデンブルクが死去、ヒトラーが総統に就任。総統は、それまでの大統領と首相の権限を併せ持った地位である。ヒトラーはナチスの党首でもあるのでナチス一党独裁の中では全政治権力のトップに立った。(ヒトラー個人独裁へ)


1935年

  • ヴェルサイユ条約の軍事条項を破り、再軍備宣言


1936年

  • ロカルノ条約を破り、ラインラント進駐。(=ヴェルサイユ体制が崩壊)
  • イタリアは前年にエチオピアに侵攻し、国連から経済制裁を受けていた。1936年に併合を強行、国連を脱退した。同時期に起きたスペイン内戦においてフランコ率いるファシズム勢力を共に支援し、自らもまたファシズム体制を取るドイツに接近(ベルリン=ローマ枢軸結成)。
  • 日独防共協定締結


1938年

  • ヴェルサイユ条約、サン=ジェルマン条約(第一次世界大戦後のオーストリアに対する講和条約)を破り、オーストリア併合
  • ヒトラーがチェコスロヴァキアに、ドイツ人居住区ズデーテン地方の割譲を要求。その後ミュンヘン会談が開かれ、ズデーテン地方の割譲が決定された。しかしこの会議の出席者はヒトラー(独)、ムッソリーニ(伊)、ネヴィル=チェンバレン(英)、ダラディエ(仏)の4人であり、当事国のチェコスロヴァキアは呼ばれない中で決定された。

※この頃英仏は、勢力拡大をするドイツに脅かされ、宥和政策を取ることで妥協点を見出そうとしていた。ヒトラーは英仏首脳に対し「これが最後の領土要求だ」と述べたが、それを信じた英仏が、ズデーテン地方を割譲することで、ヒトラーの気が収まると誤算したことになる。また、このミュンヘン会談で機嫌を悪くしたのがソ連である。ソ連は当時、チェコスロヴァキアの同盟国だったが、当事国とともに会談には参加させてもらえず、そしてただヒトラーの要求ばかり呑んでいく英仏に不信感を高めていった。


1939年

  • チェコスロヴァキア解体。ドイツはチェコを併合、スロヴァキアを保護国化した。
  • またポーランドに対しても領土要求が行われ、ドイツの際限ない領土拡大に耐えられなくなった英仏は宥和政策を放棄し、ポーランドと相互援助条約を締結
  • 宥和政策を放棄した英仏といつ戦争になるかわからない中で、もし東側のソ連とも敵対したら、ドイツは挟撃されてひとたまりもない。ソ連も、英仏の釈然としない態度(宥和政策でドイツの拡大を許したクセに、今度は敵対していく)に不信感を高める上に、東側にはドイツと防共協定を結んだ日本がいる中で、挟撃されるのは避けたい。この利害の一致により、独ソ不可侵条約が締結された。
  • 独ソ不可侵条約にはモロトフ=リッベントロープ密約が付属した(ソ連外相モロトフとドイツ外相のリッベントロープによる)。これはポーランドの東西分割と、バルト三国とフィンランドをソ連勢力圏に入れるということを決めた、秘密条約であった。
  • ドイツがポーランド侵攻。ポーランドと相互援助条約を結んでいた英仏がドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦勃発
  • 密約通りに独ソがポーランドを分割支配。


1940年

  • ドイツ、中立国デンマーク・ノルウェーに侵攻。独仏国境での戦争を回避したかった英仏の思惑が外れ、独仏国境で戦闘開始
  • ドイツ、中立国オランダ・ベルギー侵攻。これによりフランスへ侵入

※本来、中立国に攻め入るのは国際法違反となる。また、ドイツは第一次世界大戦でも対フランス戦で中立国であったオランダ・ベルギーを勝手に横断してフランスに攻め入った(シュリーフェン・プラン)。それだけオランダ・ベルギー方面からの攻撃がフランスにとっての弱点であるとわかるが、前回敗戦国になったにもかかわらず、同じ国際法違反を繰り返すドイツもいかがなものか、と思わずにはいられない(苦笑)

  • パリ占領。ド=ゴール、ロンドンに亡命(→自由フランス政府結成、レジスタンス結成呼びかけ)。北フランスはドイツが占領。南フランスはペタン元帥によるヴィシー政府樹立(ドイツの傀儡政権)。
  • イギリス空襲(バトルオブブリテン)開始
  • 日独伊三国軍事同盟。ファシズム政権同士による結束。

※日本がファシズム政権であったと言い切ることは出来ないが、ここではそのように表記。


1941年

  • イタリア支援のためバルカン半島を制圧
  • これより独ソ関係が緊張


1942年

  • 独ソ不可侵条約を破棄、ソ連侵攻(独ソ戦開始)。
  • これより英ソ関係が好転(敵の敵は味方!)、英ソ相互援助条約締結。

※以降、ソ連が連合国側になることで最大の資本主義国アメリカと最大の社会主義国ソ連が結託することになり、第二次世界大戦が“反ファシズム戦争”という特徴を持つことになる。


1943年

  • スターリングラードの戦いでソ連に惨敗。この戦いは市街戦であり、戦車を強みに持つドイツ精鋭部隊は補給戦と化したこの戦闘に苦戦を強いられ、最終的に降伏。
  • 以降、独ソ戦ではソ連が圧倒的優位になる。


1944年

  • テヘラン会談(1943年)で決定されたノルマンディー上陸作戦が決行され、独ソ戦と併せて東西から挟撃される。
  • パリ解放


1945年

  • ヒトラー自殺
  • ベルリン占領、ドイツ無条件降伏(ヨーロッパでの第二次世界大戦終了)。

↓他記事へのリンクです(気になるところを見てみてください!)

「日独防共協定・独ソ不可侵条約・日ソ中立条約の背景」
【日本編】 【ドイツ編】 【ソ連編】   


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